2009年2月28日土曜日

これでんがな

旧知からの連絡があるとうれしいっす。

俺はいけないけれど、みなさん、楽しんでください。痛飲と通風には気をつけるように。


2009年2月15日日曜日

知識人とは何か

これもいまさらながらですが読みました。
でも私は「オリエンタリズム」すらまだ読んでいないので、サイード初心者なのです。


知識人へ対する辛らつな内容となっていますが、ここまで規範的な定義を読まされると、
そんな人物はこの世に存在しえるのか、という疑問が出てきます。

でも、この定義、
「知識人とは、亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには
権力者として真実を語ろうとする言葉の使い手である」には、パレスチナ出身で、アメリカで修練をした著者であるからこそ語れる、語らねばならない定義なのだと思います。

ここで興味深いのは、知識人は世俗であることと述べていることです。
ハイルブローナーという人は経済学を世俗の哲学と呼んでいますが、ここで言われている世俗という意味と、ほぼ合致するのではないかと思います。

経済学も、政府や議会が考える政策に対し、対立した見解を述べる場合が多いですね。こうした、権力に抗い、言論をもって信実を語るという点では、経済学の世俗性と、サイードの言う、知識人のあるべきすがたの世俗性というのが重なる部分が多い、という風に感じております。

この本の内容を咀嚼するためには、もっと読まねばなりませんね。
現代思想のベースになっているということでは、疑問の余地はないでしょう。

アイデアの作り方

ジェームズ・W・ヤングの著作である、「アイデアの作り方」。
非常に有名な本で、広告等の企画系の方であれば、まず目を通しているでしょう。
いまさらながら再読。

アイデアの作り方の肝は非常に簡単で、要はインプットを醸成させる、ということです。

本自体も非常に薄いものなので、論旨も明快、といったところですが、
個人的にはこの結論以外にも気になるところがありました。

それは、情報のインプットについての記述ですが、本書の最後の方で
「辞書が短編小説集」であると書かれています。

辞書を読む、という表現がありますが、このヤングの記述もそれに似ているでしょうね。
リファレンスのみならず、辞書からその言葉、減少の内奥をつかめ、ということなのでしょうか。非常に含蓄のある言葉だと思います。

確かに、辞書を小説と同様に読みこなすことができれば、アイデアは限りなく出てくるものなのかもしれません。

本書は、他にも広告に携わる者は、社会科学の勉強、
「有閑階級の理論」や「孤独な群衆」を読んだ方がいい、とも言っています。これも社会全体を理解するように努めることへの忠告だと思います。

薄さと結論によって、本書は非常に簡潔な論文と読まれている場合が多いのかもしれませんが、こうした行間に、鋭い含蓄があるのです。この点が読めないと魅力が半減する書物かもしれません。

2009年2月11日水曜日

マクドナルド、1月の既存店売上高は7.1%増

ニュースサイト/ブログの存在って面白いと思う。早速まねする。


マクドナルドの売り上げが伸びたとかで、早速ニュースになっています。
ついこの間も、売り上げが落ちたら落ちたで、話題になるんだから、本当に忙しい会社ですね。

で、今回の売り上げ増のニュースですが、結局は、不景気からなる給与の伸び悩み(またはカイコされてしまった)の影響から、高くつく外食を避けて、手軽な料金で楽しめる、マックに移行した、いわゆる、所得効果(可処分所得が下がったから、消費を抑える)だと思うのです。

ただし、報道をみると、なにやらマック側に経営上の秘策があって、それがために功を奏したものである、という論調になっているような気もしますね。

まあ、ここでいう消費額を抑えたという影響が本当であれば、マックはじめ、他の低価格で勝負している飲食店(吉野家、富士そば、などなど)の決算も待たねばならないでしょう。
こういった結果を見れば、所得効果であったのか、マックの創意工夫がすばらしかったのか、すぐわかるはずです。少なくとも、このタイミングまでは、マックを礼賛するべきではないのかもしれません。


所得というのも、incomeの漢語訳にになるのでしょう。やまとことばだと、実入りとか、もうけとか、そういうことになるのかな。

経済学用語も漢語が多い分、想像しやすいが、説明はしにくい言葉が多いですね。
もっと簡単な言葉で経済、しいては社会のことを説明できるように、日本語の感覚を研ぎ澄まして行きたいと思います。

日本語の21世紀のために

また読んでみましたよ。

気骨あふれる爺、二人による対談集であるが、中身が濃くって面白い。

特に、伝達の手段としての日本語のみを重視したために
標準語を作ったのはよいが、思考の手段としての日本語としての役割をおざなりにした、
という指摘は、示唆に富んでいて面白い。

日本語を思考のツールとして利用していく限り、必ず言語の壁、ここでは標準語の壁にぶつかるんですね。

また、書き言葉が早いうちに日本中に広まっていた、という点は、網野さんの日本史の本でも
指摘されていたことです。

書き言葉が広く普及し、それを理解する人が全国にいたからこそ、中央集権的な国家が日本に成立したという点ですね。

ここで、みんなが理解できる、伝達としての機能は申し分ないものとみることができるでしょう。

日本語を使っている限りは、何度もこの本を読み直して、自分が使っている言語が一体どういうものか、時間はかかろうとも、考えるべきだと思う。自分の使っているものが、実はどういう性質のものか知らないようでは、それを使って書いている、Life Hack、成功本など、いくらあっても意味がなくなってしまうかもしれません。


2009年2月8日日曜日

経済学に感じるもの

経済学部出身ということもあって、今もそういった類の本をよく読むんだけれども、
閉塞感というか、視野が広がらない、という感覚を覚える時がある。

経済のことを考えるに、経済学のみを手段として臨んでいるところに問題があるように感じるのです。

ハイルブローナー氏の著作によれば、経済学は、「世俗の哲学」ということになります。
経済、または経済の見地から社会を捉えるということに対して、経済学ばかりでなく、他の分野の考え、思想も含めて考えるというのは、非常に有効なのではないかと、思うのです。

行動経済学など、心理学など人間の行動を視野に入れた研究がなされていますが、経済活動や運営、政策は、もっと、その時代の考え方の趨勢に影響を受けている場合があると思うのです。思想といってもいいのかな、なんかその時代を彩る考え方とかそういうものなんですが、うまく言えない。

田中角栄氏の経済政策についての是非について、「あれは趣味が悪い」という丸谷才一さんの意見を読むと、経済学者には到底思いつかないような発想だなあ、と感じ入るのですね。これは経済学者からは絶対に出ない意見だと思うんです。でも、的を射た意見ですよね。

こうした思想的、文学的な発想がやはり足り無し気がします。世俗の哲学というからには、ユーモアを含んだ批評が実は、大切なのかもしれないですよ。

2009年2月4日水曜日

怠惰な自分

何かになりたいと思っていても、怠惰な自分がいるわけでして、
ずいぶん損ばかりしているような気がしますね。まあ、自業自得です。

新聞に載っている本の広告で、「著者はリーマン危機を予想的中!」なる宣伝文句を
目にする機会がありました。それも3人はいたと思います。

いくら予想していたとはいえ、回避することもできず、世の中不況の真っ只中ですよ。

こういう場合、宣伝文句ではなく、回避できなかったという自分の無力を嘆くのが普通だと思うのですが、そうではないのでしょうか。まあ、相手が大きすぎますけれどね。

せっかくの予想を、自身の著作の売り上げを伸ばすことぐらいしか役立てられない、というのも、なんだかなあ、と思うのですよ。